コラム

きものの話あれこれ 村田吉茂
1971年(昭和46年)1月「ミセス」掲載

No.1 まずはじめに
きものの知識もたいせつ

 きものの知識を持つということもたいせつなことですね。外国の歌や芝居を聞いたり見たりするときに、音楽の美しさや、芝居の迫力だけを鑑賞するのは、ほんとにわかったことになりませんね。ほんとうは言葉を完全に理解したいわけですが、それは無理としても、何を言っているのか、どんな内容の歌なのかくらいを知らなければほんとうの鑑賞にはなりません。

 きものも同じことが言えますね。色がきれいだから、柄がいいから、なんとなく気にいったからなんていうことだけで選んだんではほんとにいいきものを選べませんね。糸や生地の素材のこと、柄のこと、染めや織りの技術のこと、産地のことなんかのある程度の知識を持って選ばないと、見当はずれのものを選ぶことになります。こういった、きものの具体的な知識については、おいおいお話していくつもりですがー。

 このほかに、さっきお話しした絵画や美術工芸品を見るときに、古いものだったらその作品の解説書をよく読んでおくとか、その時代の背景を知るなんてことも、きものの模様や色彩の知識を持つ、というよりも、教養になりますね。
 ただ、ここで問題なのは、今までお話ししたことでいいきものが選べるかというと、それだけではだめなんです。わたしは、すぐれた芸術作品は、理屈や技術的なことで具体的な指摘はできないと思うんです。見ていると、美しくて、なんとなくひきつけられて心が豊かになる、そんな作品がすぐれていると思っているのですがー。わたしはきものも芸術作品だと思ってますから、やっぱり心がひきつけられる何かがないと、いいきものといえないと思います。

 皆さんは、きものの知識だけで価値判断することがありますね。たとえば、かすりを買うとき、一幅に百何十もかすりが織ってあるからこれはいいきものだ、と判断するのは大きなまちがいです。技術だけ凝らせば人が感動するってもんじゃありません。技巧だけ凝ると作者のてらい、見えなんかがどこかに出る卑しい作品になりますね。100パーセントの技術のほかに、何か作者の心が迫ってきてひかれるという、わたしはこれを入心度といってますが、これも100パーセントなければいけないと思います。それじゃそんな入心度がわかる鑑識眼をどうしたら持てるか、と言われても困りますね。これはさっき言った美の意識の長い間の積重ねと、先天的、後天的教養とでもいいましょうか、そういうものがあいまってできていくもんなのです。

 ここでわたしが言いたいのは、きものの知識を持つこともたいせつなことだけど、それだけできものを判断してはいけないということですね。このごろのように、技巧を凝らしたもの=高価なもの=いいきものという判断がされやすい時代には、特に申し上げたいですね。これは、今お話ししたかすりのような織物だけでなく、染めや、そのほかどんなきものの場合にも言えることで、このことについてはこれからさき、だんだんにお話ししていくつもりです。