コラム

きものの話あれこれ 村田吉茂
1971年(昭和46年)7月「ミセス」掲載

No.7 羞恥心と季節感について
ほんとうの美しさで注目されるように

 ご存じのように、昔は季節に合わせた着分け方を堅く守っていたものですが、近ごろは季節感の先取りとでもいうんでしょうか、ほんとうの季節よりもだいぶ早めにお召しになるかたが多いようです。もちろん季節感は「六日のあやめや十日の菊」のようなおくればせな表現では新鮮味がなく、かえって間が抜けて見えるものですが、そうかといってでたらめな季節感の先取りはどうでしょうかー。たとえばここ数年、四月ごろになると目につくのが紗の羽織です。ご承知のように、紗はすける布地です。同じひとえものでも、透ける布地はふつう盛夏のものとされているわけで、いくらちりよけのおしゃれ羽織といっても、まだ肌寒いころの、しかもあわせのきものの上に、透ける紗の羽織というのはおかしいものです。よくわかりませんが、洋服でいえばウールのワンピースの上に、透ける薄物の上着を重ねたというようなことではないかと思うんですがー。

 レースの羽織なども、同じですね。レースはそのうえ、きものとの調和ということも問題になります。レースは西洋生まれ、そのバタ臭いものを日本古来のきものの上に合わせるむずかしさ。対照上美しく調和するはずがないと思います。レースは高価で、着ていると裕福そうに見える、目だって見えるという考えでお召しになるのでしょうけれどー。

 あわせに紗の羽織も同じように、流行だから、また、人より目だって見えたいという意識からお召しになるのでしょう。

 人間は誰しも他人に自分を認めさせようとする意識があります。この意識を持っているからこそ進歩し、向上するのだと思います。しかし、他人に認めてもらうには、美しくりっぱな人(きれいで裕福にりっぱというのではなく、風格が美しく、りっぱということです)ということで認めてもらわなければなりません。女性の場合には、このほかにかわいらしいということもつけ加えなければなりませんね。けっして変わった格好や行動、富の力で他人に自分を認めさせようと思ってはなりません。変わった格好や、豪華な装いをした人々を、人は確かにふり返りますが、それはけっしてその人の美しさを観賞して注目しているのではありません。あきれた目、軽蔑の目、嫉妬の目で注目されるのでなく、「ああ美しい人だ」「なんて様子がいい」という目でふり返られてほしいですね、女性はー。

 きものは、長い間の歴史の中から生まれ、季節に結びついたしきたりがあり、そのしきたりがあざやかな季節感を作り出しているのですから、季節感のないきものは味気ないし、狂った季節感はおかしなものです。昔に比べると衣がえのしきたりがくずれてきた今日でも、あまり極端な季節感無視は教養を疑われますね。

 あわせのきものに軽いひとえ羽織を合わせたいとお思いでしたら、透けない布地のひとえ羽織をお召しになるのがほんとうでしょう。紗のような透けるものは、五月も半ばを過ぎてひとえのきものの上に羽織ってこそ、美しく調和するのです。

 きものの本義をしっかり考えてお召しになることがたいせつですね。