コラム

きものの話あれこれ 村田吉茂
1971年(昭和46年)9月「ミセス」掲載

No.9 相応ということ
年相応ということもたいせつです

 分相応という言葉のほかに、年相応とか、年齢相応という言葉もありますね。

 戦後は、戦前に比べて一般的にはで好みになったといいます。それは、平均寿命が伸びたことやいろいろな社会的背景が理由として考えられますが、そのほかに大きなビルや明るいにぎやかな場所、新しい住居など、環境が変わったということも見のがせませんね。昔の暗い純日本式の建物の中で暮らしていたころのきものでは、今の環境に映えにくくなったことは確かです。けれども、一般的にはでになったからと、どなたもが極端にはでになさるのはどうでしょうかー。

 年をとるということは、肉体的な衰えから考えるといやなことですが、自分の風格がそれだけ向上したと考えれば、すばらしいことだと思うのです。

 女性は年齢を、実際の数と外見上の肉体的衰えだけで考えがちですが、年をとるということは、外見や生理的年齢ではなくて、人格の年輪がふえることではないかと思うのです。十年たてば十年前のきものがはででおかしいのは、肉体的年齢で似合わなくなったのではなく、風格の年齢がそのきものに合わなくなったと考えたいのです。

 二十代には二十代の美しさ、三十代には三十代の美しさ、四十、五十、六十とその年代の美しさがあるのに、四十代で三十代のきものを着ようとするところに無理があるのです。若い年代は、若さやういういしさ、肉体的な美しさが主ですが、年齢が高まるにつれて、そのかた自身の教養や人間的な美しさが生まれてくるものなのです。

 せっかく年齢を重ねた風格の美しさがあるのに、肉体的年齢を若づくりにして補うかたがよくありますが、こういうかたは、積み上げてきたご自分の風格をご自分で低く見せているのだと思います。そのようなかたを拝見するたびにわたしは残念でなりません。

 若くありたいという気持ち、いつも若い新鮮な気持ちを持つことは、とてもいいことですが、若く見えるように装う、若づくりにするというのは、かえって虚飾の無理が出てたいていのかたには不自然に見えると思いますがー。若く見せるのは装う外見ではなく、中身だと思うのです。

 よく「あの人は××歳なのにあんなはでなものを着ている、それなら私だってもっとはででもいいわ」などと、他人と比較してきものを選ぶかたがいらっしゃいますが、これはおかしなことですね。同じ五十歳どうしでも、四十代に若く見えるかた、年齢どおりに見えるかた、もっとふけて見えるかた、と人はさまざまです。他人の年齢を気にするよりも、ご自分の風格の年齢をしっかり見きわめることのほうがたいせつです。

 とは申しますものの、女性は若く見えるということに弱いようですね。そこを利用しているのが業者です。業者はだいたい、若い、若いとおせじを言うものです。「お若いです」とおだてておけば、若いはでなものを買っていただける、はでなものはすぐ似合わなくなり、次から次へと新しいものを買っていただくのに好都合というわけです。じみなものを買っていただいたのでは、長い間着られて、次のものを買っていただく機会が少なくなるという考え方ですね。

 このようなおだてにのりやすいかたは、ご自分のこと、服装の使命ということがあまりよくわかっていらっしゃらないかたに多く見かけます。現在六十歳以上のかたは、きもの経験も深く、このようなおだてにはおそらくのらないと思います。

 誰がみても十歳は若く見えるというようなかたは格別無理にじみなきものをお召しになる必要はありませんが、一般にはじみづくりのほうが落着いて奥ゆかしく見えるものです。はでにして若く見えるということは、片面知的に見えないということにも考えられると思うのですがー。年齢よりも若く見えるということは、年相応の風格がないという考え方もできますね。若いうちは若く見えることで結構ですが、ある程度の年配になったら、若いといわれて、にこにこ喜んでばかりいらっしゃるのもどうでしょうかー。