先代のコラム

五代店主 村田吉茂

まずはじめに

 わたしが家業の呉服業に携わったのは十七歳の時でした。二年後、父親の急死にあい、十九歳で二軒の店をとりしきるはめになってしまったわけです。同業の呉服屋の主人といえば、皆、長い経験を積んだおやじと同年くらいの人か、もっと年寄りの人ばかりで、わたしはいっしょうけんめい勉強もし、人並み以上の苦労もしてきました。

 ご存じのように昔は徴兵検査があり、健康な男子はみな兵役の義務がありました。ところがわたしは十九で家の柱となり、わたしがいなければ家業が成り立たないわけで、兵役をのがれなくてはならなかったわけです。まあ、そういうわけで、なんとか免れたのですが…、そのあとは良心の呵責に苦しみましたね。なんとか、その償いをしたい、どうしたらお国のためになるだろうか…と悩みました。さんざん考えた末、やはり家業の呉服業に専念することで、お国のために働こうと決心したのです。

 きものというものは世界でいちばん美しい衣装だと思いますね。この美しい伝統を守っていいきものを作り、きものを着るかたたちをより美しくしたい、それがわたしの国に対するご奉公と考え、それだけをただひたすら思い続けて今日までになってしまったというわけです。五十数年間、考え続け、扱ってきたきものについてのすべてを、これから少しずつお話しして、皆さんが美しくきものを着るためのお手伝いができたら、と思っていますが…。

美をつかむということ

 きものについて具体的にお話しする前に、どうしてもわかってほしいことがあります。それは美の意識をしっかり持っていただきたい、つまり美しいということはどういうことなのかを知っていただきたいと思うのです。特に、きものでたいせつなのは色ですから、美しい色彩感覚をはっきりつかんでしまってほしいですね。すぐれた色彩感覚をつかめば美しいきものが選べるわけです。

 それじゃどうやって美をつかむかというと、自然から学ぶことですね。神のつくった自然ほど美しいものはないとわたしは思うんですが、たとえば、旅をしても、なんとなく「景色がいいわね」と思うだけではだめなんですね。海の色、空の色、木の色、すべて自然の持つ色彩の美しさを意識してはっきり見ることです。自然を見て第一に美しいと思うのは色彩ですね。それをしっかりつかんで学んでいただきたいわけです。自然の持つ美しさは、なにも旅をしたり郊外でなきゃ見られないわけではないんです。町の花屋に並んでいる花は意識的に並べたわけじゃありませんけど、どれ一つ美しくないものはないんで、ただ漫然と「きれいね」とながめているだけでなく、自然から学ぶ気持ちで、一枚の葉、花びらを見ることですね。自然の色のいかに美しいことがおわかりになるはずです。

 美への意識を高めるためには、このほかに一級品の絵画や美術工芸品を見ることですね。きものを選ぶのに瀬戸物やよろいを見たってしょうがないなんていうのはとんだまちがいですよ。美の水準の高いものをたくさん見ていると、美に対する教養が高まりますね。美への鑑識眼ができるわけです。気をつけて見ると、高い水準の美術品に使われている色彩は、みな天然の色ですよ。まあ、人間の作った芸術品を見る前に、最初に言ったように、天然、自然の美しさに目を向けることが、なんといってもいちばんたいせつなことだと思いますよ。

 ただ、美しい色彩も、国情や、気候、風土によって違うということを知っていないといけませんね。日本で美しいと思っている色も、外国では美しくないことがあります。日本の色はぬれた色ですから、乾燥した国、かんかん照りの国へ持っていってもよくない。そういう国は強烈な原色がよく似合うわけです。これはなにも外国へ行かなくても、日本の中でも言えることなんですね。たとえば同じよそいきでも、お茶席のきものと、オペラなんかの音楽会へ着ていくきものは違いますね。まわりの建物とふんいき、これが違うから着るものもおのずから違わなきゃいけないわけです。その違いを見分けるのが、きものの教養とでもいうんでしょうかー。

 ま、この教養が身についていれば、外国で流行している色だから何でもうのみにするという、洋装の流行に対する危険も冒さなくなるんじゃないでしょうか。

きものの知識もたいせつ

 きものの知識を持つということもたいせつなことですね。外国の歌や芝居を聞いたり見たりするときに、音楽の美しさや、芝居の迫力だけを鑑賞するのは、ほんとにわかったことになりませんね。ほんとうは言葉を完全に理解したいわけですが、それは無理としても、何を言っているのか、どんな内容の歌なのかくらいを知らなければほんとうの鑑賞にはなりません。

 きものも同じことが言えますね。色がきれいだから、柄がいいから、なんとなく気にいったからなんていうことだけで選んだんではほんとにいいきものを選べませんね。糸や生地の素材のこと、柄のこと、染めや織りの技術のこと、産地のことなんかのある程度の知識を持って選ばないと、見当はずれのものを選ぶことになります。こういった、きものの具体的な知識については、おいおいお話していくつもりですがー。

 このほかに、さっきお話しした絵画や美術工芸品を見るときに、古いものだったらその作品の解説書をよく読んでおくとか、その時代の背景を知るなんてことも、きものの模様や色彩の知識を持つ、というよりも、教養になりますね。
 ただ、ここで問題なのは、今までお話ししたことでいいきものが選べるかというと、それだけではだめなんです。わたしは、すぐれた芸術作品は、理屈や技術的なことで具体的な指摘はできないと思うんです。見ていると、美しくて、なんとなくひきつけられて心が豊かになる、そんな作品がすぐれていると思っているのですがー。わたしはきものも芸術作品だと思ってますから、やっぱり心がひきつけられる何かがないと、いいきものといえないと思います。

 皆さんは、きものの知識だけで価値判断することがありますね。たとえば、かすりを買うとき、一幅に百何十もかすりが織ってあるからこれはいいきものだ、と判断するのは大きなまちがいです。技術だけ凝らせば人が感動するってもんじゃありません。技巧だけ凝ると作者のてらい、見えなんかがどこかに出る卑しい作品になりますね。100パーセントの技術のほかに、何か作者の心が迫ってきてひかれるという、わたしはこれを入心度といってますが、これも100パーセントなければいけないと思います。それじゃそんな入心度がわかる鑑識眼をどうしたら持てるか、と言われても困りますね。これはさっき言った美の意識の長い間の積重ねと、先天的、後天的教養とでもいいましょうか、そういうものがあいまってできていくもんなのです。

 ここでわたしが言いたいのは、きものの知識を持つこともたいせつなことだけど、それだけできものを判断してはいけないということですね。このごろのように、技巧を凝らしたもの=高価なもの=いいきものという判断がされやすい時代には、特に申し上げたいですね。これは、今お話ししたかすりのような織物だけでなく、染めや、そのほかどんなきものの場合にも言えることで、このことについてはこれからさき、だんだんにお話ししていくつもりです。

自分をきびしく見つめる

次にお話しすることは、考えかたによっちゃいちばんたいせつなことかもしれませんね。

 それは、ご自分をよく知るということなんです。鏡の前に立って、人間が誰でも持っているうぬぼれをすて、冷静に自分を見ることです。太っている人は太っていることを、色の黒い人は黒いことを、そして自分の年齢をきびしく見つめることですね。美人に見せたいとか、若く見せたいとかの邪念をすてることです。きものは、容貌や外見の美醜で選ぶのでなく、そのかたの人柄で選ぶものなんです。若く見せたいとか、美人に見せたい、裕福に見せたいなどという気持ちできものを着ると、鼻持ちならない感じがどこかに出ますね。自分にないものをきものに求め、よく見せようとすると、よく見えないばかりか、せっかくそのかたが持っている本来のよさまで失ってしまうわけですね。まあ、きものに虚偽は慎まなくゃいけません。

 長い間のわたしの経験で、気持ちのすなおな人の作品は、すぐれた作品が多く、そういういいものは、やはりすなおな人柄のかたが選び、またよく似合うということを知っています。作った人のすなおな気持ちが、選ぶ人に映るわけですね。

 今回は、いろいろ抽象的なことをお話ししましたが、これを読んでいただいたあと、ウールのきもの一枚、お茶わん一つを選ぶにも美の意識を持って選んでいただきたい、そして、たとえ野草でもいいから家の中に自然の花や木を飾る心、美への関心を持っていただけたらと思いますね。