先代のコラム

訪問着「松」村田吉茂創案 昭和34年頃

いいきものを売るために

高いものほど美しい、のではない

 先月号では皆さんにいいお買い物をしていただくための話をしましたが、今月は、業者にほんとうの商いをしてもらうための、売るほうの心構えとでもいいましょうか、そんな話を中心に進めていこうと思います。

 少々堅い大きな話から始めますが、現在の日本で最も大きい問題になっている、いろいろな公害問題、これは、基幹産業の大企業や、都市だけの問題でなく、わたしども呉服を扱う業者も深く考えなければいけない事柄だと思います。

 公害というと、人間の命や自然破壊だけのことのように考えられがちですが、命や自然に関係のない、服飾や呉服の業界も、大きな意味での公害に類することをしているのではないかと思うのです。少し大げさかもしれませんが、似合おうが似合うまいが、お客さまに物を売りつけたり、法外な値段で物を売るなどは、お客さまにご損をかけるという点で公害と考えていいと思います。

 前にも申しましたが、近ごろは見識のある目で制作したり、仕入れた品物本位と誠意で商売をする店よりも、豪華な店構えやきらびやかなふんいき、おせじまじりの弁舌で商売をする店のほうが多くなってしまい、お客さまは、ほんとうにいい、似合う品物を手に入れるお得な買い物よりも、店構えやふんいきに惑わされて、似合わないものを買ってしまうという、ご損な買い物をなさることがふえてしまったようです。

 豪華ではでな店構えの店の中には、値段もそれに合わせるかのように豪華なものが多いようですね。もちろん、感覚、技術、そして入心度から見て、値段のつけようもないほど高度な作品というものもたまにはあります。ところが、最近は世の中が万事はでに豊かになったせいでしょうか、店によっては百万円単位のきものがずらりと並ぶなどということも少なくありません。中にはすべての点から見て妥当な値段と思えるものもありますが、多くはいらざる手間をかけすぎて高価になったといえましょう。

 百万円のきものは二十万円のきものに比べて五倍の美がある、というのならば、百万円で買ってもけっして高くはありません。たとえばダイヤのように、高価なものほど美しいというのならばいいのですが…。

 ダイヤは、百万円と二十万円では、カラット、色、光りぐあい、きずのあるなしなど、科学的にその違いが証明でき、その違いが、美しさの差になりますね。ダイヤは高価なものほど美しいとはっきりいえます。きものはどうでしょうか、高いものと安いものとは、素材や技術、手間のかけ方の違いは具体的にわかっても、美の違いは、具体的にわかりません。ところが多くのかたは、高いものは安いものよりも美しいと頭から決めてかかっていらっしゃる。錯覚なさる。手間をうんとかけたり、技巧を凝らしたものを美しいものと思ってしまうわけです。確かに手間がかかって高価そうには見えますが、それは美しいこととは違います。

 そんな錯覚をうまく利用して、業者は百万も、何百万ものきものを作り、売っているということもあるのです。売るほうとしては、二十万のものを五枚売るよりも、百万のものを一枚売ったほうが手間がかからず、利も多いというわけです。五回おじぎをして細く商売をするよりも、一回のおじぎで大きく商売をしたほうがいい、という考えなのでしょう。そして、こういう店は、ほんとうに美のわかるかたよりも、美がわからなくても、多額の商品をお買い上げになるかたのほうが、いいお客さまということになります。

 わたしは、経済観念のない人は非文化人だと思っています。物にはすべて適正な値段というものがあるのです。あり余るお金をどう使ったらいいかわからないかたは別ですが、そうでない普通のかたでしたら、きものや帯を値段で判断するということのないように、物を見る目、美を理解する目を養うように心がけていただきたいと思います。

値段を先に見ないこと

値段の話のついでにお話ししますが、店できものなどをごらんになるときは、けっして先に値段を見ないことです。「あら、ちょっとよさそうなきものだけど、いくらかしら」と、商品をじっくり見る前に値段を見てしまうと、その商品の正しい姿を判断することができません。「いいと思ったけど安物ね」とか「それほどではないと思ったけど、この値段だったら相当いいものだわ」などと、値段で価値判断をしてしまいます。

ですから、大きな値段票を反物の真ん中に麗々しく表示するなんていうことは、いいことではありません。こんな高いものを扱っている店であるとばかりに値段の高さを誇示したり、逆に値段の安さで人目をひいたりということは、あまりいい商売のしかたとはいえません。きものや帯は一山いくらの野菜や卵なんかとは違います。商品のよさをじっくり見ていただいたあと「なかなかいいものだけど、いったいいくらかしら」と、改めて値段を見る、その時に明確に表示した控えめな値段票が目にはいる、そんな表示のしかたが好ましいのです。

お店の中には、値段を表示しなかったり、故意か偶然かわかりませんが、値段票をひっくり返したままにしている店がありますが、これもお客さまに対して、たいへん不親切なやり方ですね。

値段票のつけ方一つを見ても、その店の見識と、お客さまに対する心づかいがわかるというものです。

個性をたいせつにする店

前にもお話ししましたが、昔はお菓子一つでもおまんじゅうは○○屋、干菓子なら○○堂と、その店でなくてはならないものというものがはっきり決まっていたものです(今でも、昔から続いた店の中には、その評判を落とさないりっぱな店もありますが…)。呉服も、織りならどこ、染めならどこ、山の手風ならどこ、下町好みならどこ、とそれぞれの向き向きがはっきり分かれていました。そういう店は、その得意とする分野をたいせつに守っていたものです。なにもかも、どんなかたたちにも合う八方美人のよろず屋風ではありません。

これは一例ですが、京都の祇園町の近くにある、ある有名な呉服屋は、場所柄、普通の奥さま向きのものが少ないわけです。先代の主人はそれを、「うちは花柳界で商売をさせていただいているから、素人の奥さま向きのものは少ない、それがうちの行き方です」ときっぱり言っておりました。その店は、京都というよりもきもの好きのかたならたいていご存じの、全国に名の知られた店ですから、その名にひかれたお客さまが大ぜいいらっしゃるわけで、商売をしようと思えば、いろいろなかた向けのものを置けば売れるのですが、それをしなかった。実にりっぱだったと思いますね。

花柳界向き、山の手向き、と自分の店の分を守って、その分野でいい商品をそろえるからこそ、お客さまも安心してご自分に合った店へ出かけて買い物をなされるわけです。

そういう店も、自分の絵を描いている店、つまりその店独自で商品を作らせているような店、白生地を別織りに織らせているような店でしたら、なお申しぶんないでしょう。けれども、こういう店は自分の個性がしっかりしているので、どなたにもお気に召してお似合いになるというわけにはいかないかもしれません。店の側からいえば、こういう個性を持った店は、幅広くはでにやっている店に比べて数字はあがらないでしょう。

問屋の展示会などで、目のきくよその店の仕入れた商品とそっくり同じものを、あとからついて回って、まねして仕入れる店もあるという昨今です。自分の店の個性や見識に自信を持っている店、そういう店でしたら、安心といえるのではないでしょうかー。

お客さまを正しくリードする店に

戦後きものの考え方が大きく変わりましたね。小さい例では、結城つむぎに対する価値評価が変わりました。昔は結城を、高価ではあるけれど、ちょっと見は木綿に見える、つまり高いものだけれど安いものに見せたいという控えめな気持ちから着たものでしたが、今では高価な結城を着るとお金持ちのように見えるという考え方で着るかたが多くなりました。それゆえ業者は、高そうに見える、手間と技巧をうんと凝らしたものを作ることに専念し、結城本来の姿を見失いがちのように思えますね。

業者というものは、お客さまよりも一歩も二歩も先に歩いていなければならないものです。といっても、流行を作って波に乗せるということではありません。めまぐるしく変わる社会の動きに目を止めて、その動きの中できものの美はどうあるべきかということを考え、勉強し、お客さまを常にリードする(流行を押しつけたり、いたずらに高価なものをいいものと思わせたりするのはリードとはいえません)、このような姿勢を持って臨まないと、お客さまの信用を得られなくなってしまします。

昔はきものを実用着として着ていましたが、これからは着るかたの美と教養の表れとしてきものを着るようになっていき、美意識も教養も高度なかたがきものをお召しになっていくでしょう。そうなると、利益の追求だけを目的としているような業者は、いつか、そういうほんとうのお客さまたちから見放されていってしまう、と思うのですが…。