先代のコラム

別註品考案中の先代村田吉茂

毎日の暮らしすべてが美の勉強

夏物のいい評判が冬物に響く

 先月号では、最近夏きものをお召しになるかたが少なくなったことを残念に思うとお話ししましたが、考えてみると、呉服屋や百貨店の責任もあるようです。というのは、お客さまから「このごろ夏物のいいものがどこに行ってもない」という声をよく聞きます。実際、デパートでも呉服屋でも、春秋、冬物に匹敵する夏物をきちんと置いている店が実に少なくなりました。デパートや呉服屋にいわせれば、夏はきものを着るかたが少なくなり、したがってきものの需要も少なくなった、需要のないものに売り場をさいたり力を注ぐのは商売にならない、ということです。鶏が先か卵が先かの話のようですが、売れないから置かない、売っていないから着ないの堂々巡りになります。

 しかし、これは売る側のそろばん本位の政策がいけないのだと思いますね。たしかに、昔に比べると夏のきものの需要は少なくなりましたが、それだからといって、夏物を置かなくなったり、力を抜いたりというのでは、お客さまに、あまりに申しわけないのではないでしょうか。季節を問わず、お客さまのどんなご注文にも応じられるようにしておく、それが見識のある専門店ではないでしょうかー。

 正直いって夏はそろばんの上からは、春秋物、冬物に比べて商売になりにくいとは思います。しかし目先の利益だけを考えずに、大きな目で考えてみる必要があります。一人のお客さまが買って、それを着てお出かけになれば、二十人から二十五人のかたがごらんになると思います。その二十五人の中の一人や二人は「いいきもの」と思い、同じようなものがほしくなる、同じような夏物をお求めになるかもしれないし、夏であんないいきものを作るのだから、冬物はさぞや、と思ってくださるかもしれないのです。つまり、夏のいい評判が冬物に響くわけです。大きな目で見ればちゃんと商売につながるのです。戦後はこういう大きな考えを持ってきものを扱う店が少なくなりましたね。徳川時代は呉服師と呼ばれていた呉服業を、明治以降呉服屋とただの商人にしてしまったのはほかならぬ呉服屋自身ですが、戦後は更に、呉服屋としての見識を持たない、勉強をしない店が多くなってしまったのは残念です。

あちこちで買わない

売らんかなの店が多くなると、お客さまも迷います。そこで今度はお買いになるお客さまの話になりますが…。

前にもお話ししましたが、それぞれのお宅で昔はまんじゅうはどこ、ようかんはどこと、出入り、またはいつも買う店が決まっていたものです。きものも同じで、必ず出入りの呉服屋、行きつけの店があったものです。そういう店では、そのお宅の家族構成、一人一人の年齢、好み、寸法、そしてどんなきものを持っているかまでよく把握していたものです。ですから、きものや帯を新調してもけっしてむだがない、持っているものとちゃんと調和するものがそろいました。

ところが今日では、そういう習慣がなくなり、行きあたりばったりできものや帯を買う方が多くなりました。昔に比べて、呉服屋もショーウィンドーに重きを置いて、人目をひく飾りつけをするようになりましたから、町を歩いていて一目見てほしくなるようなことがずいぶんあると思います。また「この間買ったきものにこの帯なら絶対に合う」とばかりに衝動買いをなさった経験がどなたにもおありでしょう。けれども、そうやって買ったものは、今までお持ちになっていたものとぴったり合いましたか、いつ見ても飽きないものでしょうかー。わたしには、うまく成功なさった場合はそんなにないのではないかと思われるのですが…。大部分のかたは、手持ちのものと合わせてみると合わなかったり、二、三回身につけているうちに飽きてきたり、という経験があるのではないかと思います。

きものはその店おのおのの個性が売り物の商品です。今は、昔に比べてその店独自に創作したものよりもメーカーや問屋の作ったものを仕入れるほうが多くなったとはいえ、商品を仕入れる目は、その店独自のもの、つまり個性です。店の個性とお客さまの好み、個性が一致していいきもの姿となり、商品も生きるわけです。もっとも、近ごろは個性のない、どこにでも売っているものを並べている専門店も少なくありませんが…。

その個性とは…関西風、関東風、下町風、山の手風、色づかい、柄ゆきなどといろいろあげられますが、そういう末梢的、具体的なことよりもまず、芸術感覚のレベルの相違ということのほうが大切なのです。その個性を無視して、Aの店のきものにBの店の帯、Cの店の羽織を合わせたのでは、美しい調和のとれたきもの姿にならないと思います。その芸術感覚のレベルとはどういうことで、具体的にどう違うかとおっしゃられてもむずかしいですね。今までお話ししてきたいろいろなことから、ご自分で感じ取っていただくよりしかたがないことだと思います。

ためしに、今まであちこちでばらばらに買っていたものを、お手持ちのものと合わせてごらんになるとよくおわかりになると思います。色や柄は合っていても、なんとなくお互いにしっくりしない。そのなんとなくが芸術感覚のレベルの違いなのです。この違いは、単にきものや帯などの着るものだけにあてはまるのではなく、帯締めや袋物、草履などの小物にいたるまであてはまることがあります。そして一度レベルの高いものをお持ちになると、ほかのものではどうしても不満に思えてくるのです。

言葉では、とても説明できない芸術感覚は、実際に実物を見てわかっていただくよりしかたがありませんね。

美しいものに興味を持つ

そう思って、わたしは、店やいろいろな会のおりに、美しい古代裂などをよく飾っておきます。黙ってお客さまのご様子を見ていると、いろいろなお客さまがいらっしゃいますね。店へはいるやいなや商品などに目もくれず、一直線にその古代裂をじっと見つめるかた、全然気づかれないかた、見ても興味を示さないかたなどー。

熱心に見入るかたは必ずわたしどもに質問をなさいます。いつごろのもので、どこの国のもの、なんというきれ地なのか…等々。わかるかぎりは、わたしもお答えしますが、実に熱心に聞いてくださいます。このようなかたは、これで一つ勉強をなさったことになると思うのですがー。そして、芸術感覚も高くなったと思うのです。

気づかないかた、興味のないかたは、いくら説明しても、こんなきたならしい布地、と思うだけでおわかりいただけない。

ここで違いが出てくるのです。

物を心眼で見ようとするかたと、ただ漫然と見るかたの違い、少しでも勉強しよう、向上しようとするかたと、そういう気持ちのないかたとの違いがー。

心眼とは、ただ見るのではなく、印象づけて見る、心で見るということで、心眼で見たものはけっして忘れないものなのです。そしてそれは、色や柄のような外側に表われたものだけを見るのではなく、その物の心、つまり作った人の心を読み取るのです。

いつの時代のもので、何に使われてなどという知識的なことを知ることも必要なことですが、そういった知識に気をとられて物の心を見忘れてはいけません。邪念のないすなおな気持ちで物を見れば、作った人の心を見ることが出来るのです。

ご自分の感覚に自信のないかたは、このようにして、今まであまり興味を持たなかったものに目を向けてみる、心眼で見るように心がけるのです。そのかたが、すなおに勉強しよう、感覚を高めようとお考えなら、一つのものをきっかけにして、二度、三度と美しいもの、すぐれたものに興味を持つようになっていかれると思います。たび重なるにつれてそういうものに心がひかれるようになり、更に美しいもの、すぐれたものが見たくなってきます。そのような気持ちになればしめたものです。あとは、そのかたの勉強と努力しだいで、感覚が自然に高められていきます。

そのきっかけになる美しいものは、なにもきれ地や衣装に限りません。花びんでもお茶わんでも、絵でもかまいません。美しいものならば何でも芸術感覚を高めるもとになります。

さて、このようにして感覚を高めても、その感覚をきもの選びのときだけにしか使わないというのでは、何のために勉強したのかわかりません。きものさえ美しいもの、いいものを着ていれば、日常の生活はどうでもいい、という考えでは、ほんとうの芸術感覚を持っているかたといえませんね。

すばらしいきものを着ていらっしゃるかたが、家では無神経なお茶わんでお茶を飲み、インスタント食品や、できあいのものを平気で召し上がっている、なんていうことがよくありますが、そういう暮らし方は、そのかたの風格のどこかに表われてくるものなのです。

みそ汁一つにしても、心をこめて作り、季節感をたいせつにして、美しい器に盛っておいしくいただく、そのような日常の積重ねが感覚の勉強になるのだと思うのですがー。味つけから食器の選び方、ぞうきんがけに至るまで、日常のすべてに神経をつかい、心を打ち込んでなさることが、風格を高め、感覚をみがくことに通じるのです。

美しいものに興味を持ち、そこから学んだ感覚を日常のすべてに及ぼす、そのような暮らし方、生き方をしていただけたらと思います。