先代のコラム

振袖「若松」村田吉茂創案 昭和36年

相応ということ

分不相応は美しくない

いつもお話ししていますように、服装はそのかたの人となりを表わします。それゆえ、着るものを選ぶのはむずかしい。お若いお嬢さんならば、若いということで流行のものでも不似合いなものでもある程度自由に着ることが見のがされるでしょうが、ミセスともなると、好きなものを自由に着る、ではすまないのではないでしょうか…。

基本的な考えですが、そのかたの人となりを表わすような装い、それは、分相応の装いということではないでしょうか。分相応、身分相応といいますと、いかにも封建的な、身分制度の強い時代の言葉を連想しがちですが、わたしが言いたいのは、階級的な身分ではなく、そのかたの人間的な分です。

そしてそれは、けっして経済的な金銭の枠でもありません。ご自分の人間的な枠をわきまえるということなのです。

これはたとえですが、年配の会社の会長夫人と若い普通の社員の奥さんがいるとします。その会長夫人が社員の奥さんのようなきものを着、普通の社員の奥さんが会長夫人のようなきものを着る、これはどちらも分不相応といえましょう。といいますと、皆さんは「そりゃあ、経済力、社会的地位が違うんだからあたりまえでしょう」とおっしゃいますね。もちろん、経済力、社会的地位の違いも考えなければなりませんが、なによりも違うは、長い年月人生経験を積み、教養(学問、学歴ではありません)を深めてきた年配の会長夫人と、まだ人生経験の浅い若い社員の奥さんとの、年輪とでもいうべき人間の厚み、いつも申し上げている風格の違いです。

お互いに風格が違うのに、年配の会長夫人が若く装い、若い奥さんは背伸びをする、これが分不相応なのです。

もちろん、会長と普通の社員では、経済能力が違いますから、経済的に見ても、お互いに分を守るということにはなりますが、しかし、お金がないから分をわきまえる、というのと、自分にはまだそれだけの風格がないからわきまえるというのでは、結果は同じようでも、意味がだいぶ違います。お金がないからという考え方は、ひとたび思わぬ大金がはいれば、風格にふさわしくない分不相応なものを身につける…ということになりかねません。

分不相応なものは美しくありません。

たとえば、大きなダイヤはお金さえあれば買えるものです。しかし、大きなダイヤを身につけて、いやみに見えず「なんて似つかわしく、美しい」とすなおに人に思われるのは、たいへんむずかしいことです。

「大きく高価そうなダイヤ」とか「ダイヤだけが目だつ」といわれるようでは、ダイヤを身につける資格はないと思うのです。ダイヤの高価なことや大きさを誇るのではなく、似つかわしく、美しいことを誇るのでなければ…と思うのですが。

大きなダイヤをつけるには、それにふさわしい風格を身につけ、そして日常生活がそろってこそはじめて、そのダイヤはそのかたにふさわしく、身につけて美しく見えるのです。

きものも同じことがいえます。そのかたの年齢、教養、置かれた環境にふさわしい装いがそのかたを美しく見せるのです。

背伸びした高価なものが美しくみえる、よく見える、と思ってはいけません。安いものでも美しいものがあるのです。ご自分の分相応のもので美しくなるということが、たいせつなのではないでしょうかー。

ただし、常に、よりレベルの高いもの、より美しいものを望む心を持ち、毎日の生活を向上させるように努力をすることは、いつも申し上げているとおりです。

年相応ということもたいせつです

分相応という言葉のほかに、年相応とか、年齢相応という言葉もありますね。

戦後は、戦前に比べて一般的にはで好みになったといいます。それは、平均寿命が伸びたことやいろいろな社会的背景が理由として考えられますが、そのほかに大きなビルや明るいにぎやかな場所、新しい住居など、環境が変わったということも見のがせませんね。昔の暗い純日本式の建物の中で暮らしていたころのきものでは、今の環境に映えにくくなったことは確かです。けれども、一般的にはでになったからと、どなたもが極端にはでになさるのはどうでしょうかー。

年をとるということは、肉体的な衰えから考えるといやなことですが、自分の風格がそれだけ向上したと考えれば、すばらしいことだと思うのです。

女性は年齢を、実際の数と外見上の肉体的衰えだけで考えがちですが、年をとるということは、外見や生理的年齢ではなくて、人格の年輪がふえることではないかと思うのです。十年たてば十年前のきものがはででおかしいのは、肉体的年齢で似合わなくなったのではなく、風格の年齢がそのきものに合わなくなったと考えたいのです。

二十代には二十代の美しさ、三十代には三十代の美しさ、四十、五十、六十とその年代の美しさがあるのに、四十代で三十代のきものを着ようとするところに無理があるのです。若い年代は、若さやういういしさ、肉体的な美しさが主ですが、年齢が高まるにつれて、そのかた自身の教養や人間的な美しさが生まれてくるものなのです。

せっかく年齢を重ねた風格の美しさがあるのに、肉体的年齢を若づくりにして補うかたがよくありますが、こういうかたは、積み上げてきたご自分の風格をご自分で低く見せているのだと思います。そのようなかたを拝見するたびにわたしは残念でなりません。

若くありたいという気持ち、いつも若い新鮮な気持ちを持つことは、とてもいいことですが、若く見えるように装う、若づくりにするというのは、かえって虚飾の無理が出てたいていのかたには不自然に見えると思いますがー。若く見せるのは装う外見ではなく、中身だと思うのです。

よく「あの人は××歳なのにあんなはでなものを着ている、それなら私だってもっとはででもいいわ」などと、他人と比較してきものを選ぶかたがいらっしゃいますが、これはおかしなことですね。同じ五十歳どうしでも、四十代に若く見えるかた、年齢どおりに見えるかた、もっとふけて見えるかた、と人はさまざまです。他人の年齢を気にするよりも、ご自分の風格の年齢をしっかり見きわめることのほうがたいせつです。

とは申しますものの、女性は若く見えるということに弱いようですね。そこを利用しているのが業者です。業者はだいたい、若い、若いとおせじを言うものです。「お若いです」とおだてておけば、若いはでなものを買っていただける、はでなものはすぐ似合わなくなり、次から次へと新しいものを買っていただくのに好都合というわけです。じみなものを買っていただいたのでは、長い間着られて、次のものを買っていただく機会が少なくなるという考え方ですね。

このようなおだてにのりやすいかたは、ご自分のこと、服装の使命ということがあまりよくわかっていらっしゃらないかたに多く見かけます。現在六十歳以上のかたは、きもの経験も深く、このようなおだてにはおそらくのらないと思います。

誰がみても十歳は若く見えるというようなかたは格別無理にじみなきものをお召しになる必要はありませんが、一般にはじみづくりのほうが落着いて奥ゆかしく見えるものです。はでにして若く見えるということは、片面知的に見えないということにも考えられると思うのですがー。年齢よりも若く見えるということは、年相応の風格がないという考え方もできますね。若いうちは若く見えることで結構ですが、ある程度の年配になったら、若いといわれて、にこにこ喜んでばかりいらっしゃるのもどうでしょうかー。

きものは全体の30%に

じみづくりにするといいましても、なにもかもじみにふけて見せればいい、というのではありません。きもの姿の身につけるものの配分をよく考えるということです。

きもの姿は、まずきもの、帯、羽織、コート、半衿、長じゅばん、帯揚げ、帯締め、草履などが、ありますが、この表から見えるものすべてで100%と考えます。この100%を、さきにあげたもので分配するのです。

たとえば、きものが30%、帯が30%、羽織が20%で残りを小物にあてれば100%ですね。ところがどなたも現実には、まずご自分の年齢にぴったりのきものを選んでしまいがちなのです。これではきものは30%どころか80%にも100%にもなってしまいます。そうなると帯も50%から80%、この比率で羽織や小物を合わせていくと、全体で250%にも300%にもなってしまいます。これでは過剰ですね。きもの姿は、にぎやかになればいいというのではありません。総計して100%がほどほどです。

きものは大きな部分を占めますから、よほど控えめにじみにしてちょうどいいものです。若さやはでさは、帯や小物の小さい部分で表現なさればよろしいのです。一般にこの計算をはでにまちがえると醜く、いやらしく見えることが多く、じみにまちがえても、いやな感じにはなりません。

お若いうちは少々はででも甘くても、まわりの目が許しますが、年代を経るにつれてまわりの目はきびしくなります。年齢不相応に250%にも300%にもはでに装うと、そのかたの教養が疑われるようになってくるのです。

きものを創作する立場のものからいわせていただけば、一枚のきものはまず十年は着ていただきたいと思うのです。そうでなくては創作者、製作者たちの苦労が報いられません。創作者たちは、十年たてもやっぱりいいきものだ、とおっしゃっていただけるものを、と考えながら創作しているのですから…。十年ぐらいは、すぐたってしまいます。

総計100%のきもの姿のためにも、いつまでも飽きずにたいせつに着ていただくためにも、きものをお選びのときには、少なくとも五年先ぐらいのものをお求めになるのが、賢いと思います。